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Eto Ryosuke 著
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エステルハーズィ・パール (Eszterházy Pál)
生、1635年9月7日。没、1713年3月26日。ハンガリーの大貴族。公爵。副王。1652年、ショプロン県の
知事 (fóispán) となる。1661年にはズリーニ・ミクローシュと伴にオスマントルコと戦い頭角を現す。1667年には、下ハンガリーの総指揮官と陸軍元帥になる。1681年には副王に選出され、カプヴァールの領地を手に入れる。1683年の、オスマントルコによる第1次ウィーン包囲に際しては、キリスト教徒の連合軍に加わって、その開放戦争に参加する。1686年のブダ城の奪回の時には、2万の軍勢を率いて戦った。1687年には、黄金憲章の中で述べられた、貴族による国王選出権が放棄され、またハプスブルグ家の相続順位法が身分制議会によって受諾され、その後ハンガリー国王はハプスブルグ家によって世襲されることとなる。この歴史過程においてもエステルハーズィ・パールは大いに貢献した。以上数々の功績の故に、1687年に皇帝は、神聖ローマ帝国の公爵の位を彼に授けた。

学問と芸術とを好み、そのクラフト城を絵画や大きな兵器のコレクションによって飾った。彼自身も宗教関係の書物を書いた。"Trophaeum Domus Inclytae Estoratianae" という題名の作品の編集に当たっても大いに貢献した。

若い頃は良い踊り手だったようである。自叙伝の中に次のようなくだりがある。1647年の国会において、Reopoldina 皇后の要望に答え、皇帝とその后の前で踊りを披露した、と。最初はハンガリーの若い女性とハンガリーの踊りを踊り、次にエステルハーズィ・レベカと伴にワラキア人の踊りを踊り、最後には、2振りの剣を持ってハイドゥーターンツを単独で踊ったという。

(出典:Révai Nagy Lexikona, Réthei, 1924)
by kislexikon-a | 2009-10-07 22:29 | ・エステルハーズィ・パール
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